ミラー・ハギンス(Miller James Huggins、1878年3月27日 - 1929年9月25日)は、アメリカ合衆国オハイオ州シンシナティ出身のプロ野球選手(二塁手)。右投げ、スイッチヒッター。
ニックネームは"Mighty Mite"(マイティー・マイト)。1920年代ヤンキース黄金期の監督として、アメリカンリーグを6度、ワールドシリーズを3度制覇した。1964年に監督としてアメリカ野球殿堂入りを果たしている。
経歴
選手時代
1904年にマイナーのセントポール球団からレッズに入団、1年目から二塁手としてフル出場を果たす。5フィート6インチ/140ポンド(約167cm/63kg)と小柄な選手だったが、機敏な動きで広い守備範囲を誇った。攻撃では長打力はなかったものの四球をよく選んだ。13年間の現役生活で四球数がリーグ最多となったことが4度もあり、また1905年,1910年,1911年には100得点以上を記録している。レッズに6年間在籍した後は、1910年にカージナルスにトレードされ、1913年からは監督兼任となった。現役選手としては1916年まで試合に出場している。
監督時代
カージナルスは選手兼任だった1913年から5年間率いていたが、なかなか優勝争いをすることができなかった。1918年にアメリカンリーグに移りヤンキースの監督に就任、チームは徐々にリーグの優勝争いに関わるようになっていった。1921年以降は、レッドソックスから移籍してきたカール・メイズやウェイト・ホイトらの投手陣に加え、ベーブ・ルースの台頭やボブ・ミューゼルの活躍などを追い風にして、ヤンキースはリーグ3連覇を果たす。1923年にはジョン・マグロー率いるニューヨーク・ジャイアンツとのシリーズを4勝2敗で制した。
その後ルースの不調にあわせるように2年間チームは低迷するが、ルースが調子を取り戻した1926年以降は再び常勝チームとなった。豪華な顔ぶれをそろえた『殺人打線(マーダラーズ・ロー)』を擁するヤンキースの戦績は圧倒的で、1926年のワールドシリーズこそ大投手ピート・アレクサンダーの前に屈したものの、1927年と1928年にはそれぞれシーズン100勝以上、ワールドシリーズもパイレーツとカージナルスを4連勝で退けた。
しかし1929年、ハギンスはシーズン中に丹毒に感染し、同年9月19日の試合を最後に監督を交代する。最後の指揮をとってから6日後の9月25日にニューヨークで死去した。
詳細情報
打撃成績
獲得タイトル・記録
- 最高出塁率:1913年
- 四球数リーグ最多:4回(1905,1907,1910,1914年)
- 補殺数(二塁手)リーグ最多:2回(1905,1906年)
- 併殺数(二塁手)リーグ最多:2回(1906,1907年)
- 最高守備率(二塁手):1913年
監督としての戦績
関連項目
- メジャーリーグベースボールの選手一覧 H
外部リンク
- Baseballhalloffame.org(英語)– アメリカ野球殿堂(National Baseball Hall of Fame)による紹介
- 選手の通算成績と情報 Baseball-Reference、Fangraphs、The Baseball Cube、Baseball-Reference (Register)
- 監督の通算成績と情報 Baseball-reference.com




